尹伊桑の音楽は、21世紀を生きる現代人のこころさえも掴むのです

ショスタコーヴィチから少し寄り道をして、wargoからリリースの尹伊桑を聴いています。

 

バリバリの現代音楽なのですが、何故か尹伊桑「らしさ」が聴き取れるのはどうしてなのでしょう?

 

武満徹の「タケミツ・トーン」は有名ですね。同じように、尹伊桑を聴いていると、独特の「感じ」が伝わって来るのです。

 

wargoのアルバムは室内楽中心なので、楽器の数、つまりは「音の数」が少ないのですが、その方が尹伊桑の「体臭」は強いように私には思われます。

 

私には絶対音感もなく、現代音楽に精通している訳でも決してない、言ってみればごく普通の人間なのですが、例えば十二音技法で書かれた曲でも、作曲者その人らしさはかなり私にまで伝わって来るのです。そして、「伝わる」音楽は、面でこちらにグッと伸し掛かって来るタイプではなく、極限まで切り詰めた、禁欲的な作品が圧倒的に多いような気がするのです。

 

暗闇の中で明滅する光、そのようなピアノのワン・フレーズ、あるいは一瞬水面に浮かび上がった魚が放つ水紋を思わせる、ピチカートの旋律……。そのような音の「断片」に、こちらをはっとさせる、作曲者の「表情」がくっきりと刻まれている。

 

そのため、尹伊桑の「音楽」を聴き続けることは、私にとっては苦痛ではないのです。すっきりと整った「音の形」を胸の中に受け容れることは、むしろ快楽であるとすら言えるでしょう。これは、尹伊桑がどのような生をたどり、どれだけの「弟子」を輩出したか、そのことを知らない者の胸にさえ、否応ない「事実」として迫って来るのではないでしょうか。

 

そうでなければ、死後20年以上もの時を経てアンソロジーCDがプレスされる訳もなく、またそのCDに耳を傾けるとき、聴く者のこころを「音が掴む」筈もないのです。