調性があってもいいじゃない? 吉松隆考

吉松隆の第5交響曲を聴いています。正直なところ、「調性」のある音楽を聴くとほっとします。

今はどうなのか判りませんが、以前吉松氏は「現代音楽を撲滅する会」の会長でした。同じ「会」の構成員だった西村朗氏が「現代音楽」に没入していく一方で、吉松氏は頑として「調性」にこだわり続け、2001年に冒頭の第5交響曲を発表して、ファンを安堵させたのでした。

私は気が弱いので、出勤したり外出したりするとたちまちにダメージを受けて帰宅することが多いのですが、そのような「精神力が著しく低下していて、出来得るならば早めに癒やされたい」状況にあるとき、さすがに尹伊桑のCDは(作曲者には申し訳ないのですが)聴く気になれず、どちらかと言うと吉松隆の作品が収められたCDに手を伸ばすことが殆どなのでした。

まあ「落ちている」時ばかりではなく、元気なときも「吉松隆が聴きたいな」と思うことが多々あるのですが、バリバリの「現代音楽」娘である私の友人も、衒うこと無く「あ、吉松隆の新譜が出てる!」等と言ったりしているので、吉松贔屓のクラシック愛好家は結構いるのではないでしょうか。

「調性」のある音楽は、どのような時でも、不思議とこころに染み入って来ます。天気のいい日に散歩に出て、尹伊桑の弦楽四重奏曲の一節を口ずさむ人はなかなかいないと思います。どちらかと言うと、吉松隆の「プレイアデス舞曲集」を頭の中で奏でながら歩く人の方が多いのではないかと思うのですが如何でしょうか? 人間をほんとうに支えているのは、高度に加工されて「調性」を慎重に取り除かれた「現代音楽」ではなく、もっと「素朴な」メロディだと私は考えます。もちろん、私も尹伊桑のほんとうの良さを理解しているつもりですし、彼の「交響曲全集」に近々食指を伸ばす積もりでいるのですが、その嗜好の「土台になっている嗜好」は、吉松隆なのです。