ブリテンとショスタコーヴィチ、ふたつのピアノ協奏曲

ブリテンショスタコーヴィチとのピアノ協奏曲のカップリングCDを聴いています。

 昔読んだクラシックの入門書に、「ブリテンは現代人好みの和音を駆使した作曲家である」と書いてあったことを、未だに私は覚えており、その磁力の影響を受けてか、ピアノ協奏曲を聴きながら、「どのような気持ちでブリテンはこの曲を作曲したのだろうか」と思ったのです。

 実はつい先程、管理職の決済箱から、その管理職が判をついた書類を自分の管理職のところへ持っていこうとして書類の中に重要な人事関係の書類があることに気付き、それを黙って自分の管理職へ渡せばよかったものを、決済箱の持ち主に突っ返してしまうという失敗をしてしまい、まだ動揺が冷めやらない私なのでした。

 ブリテンが同性愛者であったことは周知の事実ですが、まだ私は彼の伝記に目を通しておらず、生前はどのような状態であったのか、正確なところをよく知りません。ですからこの上なく慎重にならなければいけないのですが、もしブリテンが生前にカミングアウトしていたとしたら、その重圧は凄まじいものであったことでしょう。私などが耐えうるレベルなど軽く超えていたことは想像に難くありません。(まあ彼の声楽曲に登場するのはボーイ・ソプラノばかりで、「美味しいとこ取り」と言えなくもないのですが……。)少なくとも、人事の書類云々などではなかったことは確かです。

 そして一方のショスタコーヴィチ、これはここで何度か書いた通り、ひとつ間違えば「退廃芸術」の烙印を押されて即刻粛清、の危険と背中合わせの人生でした。こちらの重圧も、ショスタコーヴィチでなければ耐えられなかったことは、伝記に依るまでもなく、容易に想像がつくかと思います。

 さて、純粋に音楽の印象ですが、ブリテンの協奏曲は、珍しく苦戦しているな、と感じたのが正直なところです。特に終楽章など、彼の得意とする「旋律」を殆ど駆使していないように、別の言い方をすれば、この作曲は「リズム中心」のように思われたのです。何故、もっと旋律や和音を駆使しないのだろう……。

 そこへ流れて来たのがショスタコーヴィチですから、その対比はとても明瞭になります。私が気付くくらいですので、このCD(EMI盤)の製作者も、恐らくその辺りを意識していたのでしょう。「リズム中心」と「旋律重視」の対比。「自由な」世界を突き進んだブリテンと、「重圧」の中で生き抜いたショスタコーヴィチ。その対比を、私は奇しくも我が身のこととして感じ考えながら、受け止めることになったのでした。