ディーリアスの衝撃

ふとしたきっかけから、フレデリック・ディーリアスが遺した音楽を聴き込んでいます。

ディーリアスの音楽の特徴は、刻々と変化していく音の色彩でしょう。Wikipediaの「ディーリアス」の項では、「半音階的和声法」と言う言葉が2度登場します。また、ドビュッシーの名前も登場します。

私は、ディーリアスの印象を、友人の来住野恵子さんに「刻々と移ろっていく、ドビュッシー的な旋律」と書き送りました。Wikipediaに目を通したのは、その後でした。

また、Wikipediaでは、バルトークがディーリアスに心酔していたことが触れられています。これは驚くべきことです。繋がるところでは、繋がっているものなのですね。

私はあと何年生きるか解りませんが、ディーリアスは、私に衝撃を与える最後の巨人だと思います。このイギリス人が私に与える衝撃を超える芸術家は、もうこの私には現れないでしょう。そんな確信があります。

まず初めに、タイトルがわからないストリーミング配信の状態で「ディーリアス」と検索し、私はディーリアスを聴き始めました。ですから、ディーリアスの音楽について、先入観は零です。

私にとってディーリアスの音楽は、言葉で表現するならば「盛り上がっては崩れていく音の水」でしょう。これが最も正確な描写だと思います。そう、ディーリアスは水なのです。耳から流れ込み、こころの中で次々と盛り上がっては崩れる音の流れ。それがディーリアスです。

ディーリアスには、ドビュッシー以上に「《暗示》に定着させること」がありません。ですから、より「純粋な音楽」に近いと言えるでしょう。

ディーリアスに「慣れて」来てから、英語のタイトルの流入を許しました。そして、その英語に更に慣れてから、日本語の「定着」を許可したのですが、それはディーリアスの音楽の中で最も有名なものに限ってのことであり、私にとってディーリアスは、相変わらず「音の靄」のようなものであることに変わりはありません。

「意味」から最も遠い、音の集まり。この「最後の訪れ」が、どれほど私を「生かして」くれているか、私は皆さんにうまく説明することが出来ません。恐らく私がこのあと書く詩の中にだけ、ディーリアスの表情はくっきりと刻まれていることでしょう。

これから「ディーリアスを進める」にあたり、取り敢えずこれだけ書き付けておきたいと思った次第です。