バーンスタインのバルトークを聴く

数週間振りに、新しいCDを聴いています。レナード・バーンスタイン指揮の、バルトーク2曲、「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」のカップリングです。オーケストラは、ニューヨーク・フィルハーモニック

バーンスタインバルトークは、初めて聴きました。意外な取り合わせですが、決して悪くありません。一言で言うと、精緻で静かな、知的なバルトークです。青い火が燃えているようなバルトーク

「協奏曲」の、ポール・グリフィスが指摘した「バルトークの生涯で最も美しい旋律」を、バーンスタインがとてもゆっくりと演奏したときは驚きました。バーンスタインも、知っていたのですね。

「音楽」も、とても丁寧に演奏されます。こちらの美しさも、尋常ではありません。大雪の夜のようなバルトーク

録音は、1959、1961年のニューヨークです。アメリカのバルトーク。ジンマンのマーラーアメリカンでしたが、バーンスタインバルトークは、それとはまた少し意味合いが違うようです。ひたすらに、美しく演奏されるバルトークなのです。それでいて、脆さは少しもありません。強靭なのです。この強靭さは、バーンスタインに通じているものなのかも知れません。激しくはないけれど、撓りがあって強い。

バルトークの印象が変わった1枚です。新鮮かつ斬新。お薦めします。

デイヴィッド・ジンマンの甘過ぎるマーラー

今朝はここ半月の間にしては珍しいくらいに凌ぎやすかったので、部屋を出る前に少し荷物の整理をすることが出来ました。玄関に置かれているいくつかの小さなダンボールを開梱すると、タワーレコードで購入したリボル・ペシェク指揮のマーラー全集が出て来ました。私はこの全集をかなりの期待を持って購入したのでしたが、どうもハズレだったと言わざるを得ません。ペシェクのマーラーは、平凡なマーラーでした。あるいは、私の感覚が平凡なものになってしまったのかと心配にもなりましたが、そのことを心配する必要は幸いにしてなさそうです。芸術の世界のことですから、ときには残酷なことも言わなければなりません。高いお金を支払って買ったマーラー全集が詰まらなかったとしたらどうでしょう? そのような訳で、私はペシェクのマーラーを傍らに押しやり、デイヴィッド・ジンマンマーラー全集を手に取って、CDをパソコンにセットしたのでした。

 包み隠さずお話しするなら、私はジンマンでマーラーを初めて知りました。それまでは食わず嫌いで、マーラーなど、まったく聴いたことがなかったのでした。ですから、マーラー演奏について、たいしたことを述べる資格はないのですが、デイヴィッド・ジンマンは、やはり実力のある指揮者だと言えると思います。ジンマンの「甘過ぎるマーラー」は、少なくともペシェクのマーラーより、遥かに面白いのです。ツボを心得ていると言うか、詩的なマーラー演奏だと言えるでしょう。ペシェクのマーラーは、散文的であまり面白くありません。散文的な演奏、これほど詰まらないものはありません。まあジンマンという人にも問題がないわけでは決してなく、例えばグレツキの「悲歌のシンフォニー」でアップショーが歌ったポーランド語が間違っていたこと、などが挙げられる訳ですが、そうであったとしても、「甘過ぎるマーラー」は、私にとっては「初めてのマーラー」なのでした。つまり、私にとっては、ジンマンこそが、マーラーの喜びをもたらしてくれた最初の指揮者なのです。

クリストフ・フォン・ドホナーニ+クリーヴランド管弦楽団のブルックナー選集を手に入れました その1:交響曲第7番の印象

Amazonのカスタマーレビューで3人のレビュワーが絶賛していたのが気になって、このクリストフ・フォン・ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団ブルックナー選集を入手してみました。

今日は交響曲第7番を聴いています。

少しゆっくりめのたいへん丁寧な演奏で、驚きました。このようなブルックナーを聴いたのは初めてです。オーケストラの音は澄んでいて、ひとつひとつの音符をくっきりと洗い出すかのように、音楽は進んで行きます。おかげで交響曲の構造がよくわかり、とてもおもしろいです。

淡白、と言うのでしょうか。丁寧な演奏なのですが、ねっとりとしている訳ではないのです。重い演奏でもありません。カラヤンなどは、逆の意味でねっとりとしていて重いブルックナーだと思います。美を強調しようとするあまり、重くなってしまう、と言えばいいのでしょうか。

そのような感じなので、弦の合奏でも音はしなやかで軽く、聴いていて疲れず、ひたすらに心地よく、風通しの良い、素晴らしい演奏だと思います。音を重ねても、決して重くならない。

ブルックナー交響曲の中でも、7番は特に構造がわかりやすいと私は思うのですが、それ故に、ドホナーニ+クリーヴランド管の、透き通ったしなやかな演奏が、ぴたりと曲に嵌って絶妙な第7番になっている、と感じるのです。

ぎらぎらとした、色彩の濃いブルックナーではなく、淡色の、丁寧に描き込まれた水彩画のようなブルックナーがここにはあります。私は、まだすべての演奏を聴いた訳ではありませんが、ドホナーニのこの選集を手に入れてよかったと思っています。確かに一般的なブルックナーではありませんが、これはこれでいいと直感します。

ブルックナーには、マーラーのような「新しさ」は確かに無いかも知れませんが、ブルックナーだけの「美しさ」は確実にあると思います。それだけで十分ではないか、とさえ感じるのです。皆さんはいかがですか?

このセットは3番から9番までの選集ですが、明日以降、聴き進めていくのがとても楽しみです。

ディーリアスの衝撃

ふとしたきっかけから、フレデリック・ディーリアスが遺した音楽を聴き込んでいます。

ディーリアスの音楽の特徴は、刻々と変化していく音の色彩でしょう。Wikipediaの「ディーリアス」の項では、「半音階的和声法」と言う言葉が2度登場します。また、ドビュッシーの名前も登場します。

私は、ディーリアスの印象を、友人の来住野恵子さんに「刻々と移ろっていく、ドビュッシー的な旋律」と書き送りました。Wikipediaに目を通したのは、その後でした。

また、Wikipediaでは、バルトークがディーリアスに心酔していたことが触れられています。これは驚くべきことです。繋がるところでは、繋がっているものなのですね。

私はあと何年生きるか解りませんが、ディーリアスは、私に衝撃を与える最後の巨人だと思います。このイギリス人が私に与える衝撃を超える芸術家は、もうこの私には現れないでしょう。そんな確信があります。

まず初めに、タイトルがわからないストリーミング配信の状態で「ディーリアス」と検索し、私はディーリアスを聴き始めました。ですから、ディーリアスの音楽について、先入観は零です。

私にとってディーリアスの音楽は、言葉で表現するならば「盛り上がっては崩れていく音の水」でしょう。これが最も正確な描写だと思います。そう、ディーリアスは水なのです。耳から流れ込み、こころの中で次々と盛り上がっては崩れる音の流れ。それがディーリアスです。

ディーリアスには、ドビュッシー以上に「《暗示》に定着させること」がありません。ですから、より「純粋な音楽」に近いと言えるでしょう。

ディーリアスに「慣れて」来てから、英語のタイトルの流入を許しました。そして、その英語に更に慣れてから、日本語の「定着」を許可したのですが、それはディーリアスの音楽の中で最も有名なものに限ってのことであり、私にとってディーリアスは、相変わらず「音の靄」のようなものであることに変わりはありません。

「意味」から最も遠い、音の集まり。この「最後の訪れ」が、どれほど私を「生かして」くれているか、私は皆さんにうまく説明することが出来ません。恐らく私がこのあと書く詩の中にだけ、ディーリアスの表情はくっきりと刻まれていることでしょう。

これから「ディーリアスを進める」にあたり、取り敢えずこれだけ書き付けておきたいと思った次第です。

温故知新、ピエール・ブーレーズのこと

先日、職場のある立川駅前のブックオフで、ピエール・ブーレーズのCDをみつけました。「レポン」と「二重の影の対話」が収録されており、たまたま「てんや」で天丼を食べて帰ろうと思って持っていた750円をそのまま投じ、そのCDを買ったのでした。

ブーレーズが強烈過ぎて、彼と同時代の指揮者は皆霞んでしまいましたが、私などが改めて言うまでもなく、例えばクラウディオ・アバドなどは大指揮者だと思います。それが皆、霞んでしまったのです。是非、再評価されるべきではないでしょうか。

などと偉そうなことを書いていますが、ここ3日程、ろくなものを食べていません。給料日前で、金欠なのです……。

それはさておき、ブーレーズのCDですが、今聴いてみると、端正で、どこか懐かしい感じがします。別の言い方をすれば、聴きやすいのです。音も電子音響処理されていてまろやかです。不思議なものですね。

当然のことですが、ブーレーズが作曲した音楽には彼独特のオリジナリティがあり、そのために聴きやすいのだと思います。どういうことかと言うと、個性があるので、曲が引き締まり、整理されているのです。だから聴きやすいのです。彼が提唱した「管理された偶然性」によって、ブーレーズの音楽は長時間の命を得たのですね。つまり前衛音楽が古典になった。ブーレーズ「作曲」の音楽は、「クラシック」として、これから長く愛されるのだと思います。

と言うわけで、明日は待ちに待った給料日。まずは食べそこねた天丼を食べに、てんやに向かおうと考えている次第です。

とても美しく甘いけれど バーバーのヴァイオリン協奏曲

サミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲を聴いています。

これまでまったく聴いたことのない曲でしたが、とりわけ第1楽章の冒頭部から旋律が奏でる余りの美しさに少々驚き、「私の知らない美しさがまだあったのか」と、光か何かに打たれたような衝撃を受けました。

第1楽章、第2楽章と切ない旋律が静かに続くのですが、第3楽章では、現代的なリズムに乗って、バーバーの「美」が炸裂します。

ほんとうに、これほど美しいものが、世界に存在してもいいのでしょうか。

バーバーは「弦楽のためのアダージョ」が特に有名ですが、バルトークがどのような音楽を書いてもバルトークであるように、バーバーもやはりバーバーなのですね。

しかし、この協奏曲は、たいへん美しくまた甘いですが、無条件に甘いのではないと私は思います。バーバーは、ムーサから「美」を貰うことの意味を知っていたのではないでしょうか。ムーサは「私達」に極上の「美」をくれますが、それと引き換えに、「命」を少し持って行ってしまいます。「美」は無償ではないのです。

力強いリズムの中で、煙がほどけるように切ない旋律がヴァイオリンから立ち昇って、第3楽章が終わります。バーバーが見せてくれる「夢」もここでお仕舞いです。「美」があったところにたちまち現実が流れ込み、「私達」はまたひりひりと生きなければなりません。

ブリテンとショスタコーヴィチ、ふたつのピアノ協奏曲

ブリテンショスタコーヴィチとのピアノ協奏曲のカップリングCDを聴いています。

 昔読んだクラシックの入門書に、「ブリテンは現代人好みの和音を駆使した作曲家である」と書いてあったことを、未だに私は覚えており、その磁力の影響を受けてか、ピアノ協奏曲を聴きながら、「どのような気持ちでブリテンはこの曲を作曲したのだろうか」と思ったのです。

 実はつい先程、管理職の決済箱から、その管理職が判をついた書類を自分の管理職のところへ持っていこうとして書類の中に重要な人事関係の書類があることに気付き、それを黙って自分の管理職へ渡せばよかったものを、決済箱の持ち主に突っ返してしまうという失敗をしてしまい、まだ動揺が冷めやらない私なのでした。

 ブリテンが同性愛者であったことは周知の事実ですが、まだ私は彼の伝記に目を通しておらず、生前はどのような状態であったのか、正確なところをよく知りません。ですからこの上なく慎重にならなければいけないのですが、もしブリテンが生前にカミングアウトしていたとしたら、その重圧は凄まじいものであったことでしょう。私などが耐えうるレベルなど軽く超えていたことは想像に難くありません。(まあ彼の声楽曲に登場するのはボーイ・ソプラノばかりで、「美味しいとこ取り」と言えなくもないのですが……。)少なくとも、人事の書類云々などではなかったことは確かです。

 そして一方のショスタコーヴィチ、これはここで何度か書いた通り、ひとつ間違えば「退廃芸術」の烙印を押されて即刻粛清、の危険と背中合わせの人生でした。こちらの重圧も、ショスタコーヴィチでなければ耐えられなかったことは、伝記に依るまでもなく、容易に想像がつくかと思います。

 さて、純粋に音楽の印象ですが、ブリテンの協奏曲は、珍しく苦戦しているな、と感じたのが正直なところです。特に終楽章など、彼の得意とする「旋律」を殆ど駆使していないように、別の言い方をすれば、この作曲は「リズム中心」のように思われたのです。何故、もっと旋律や和音を駆使しないのだろう……。

 そこへ流れて来たのがショスタコーヴィチですから、その対比はとても明瞭になります。私が気付くくらいですので、このCD(EMI盤)の製作者も、恐らくその辺りを意識していたのでしょう。「リズム中心」と「旋律重視」の対比。「自由な」世界を突き進んだブリテンと、「重圧」の中で生き抜いたショスタコーヴィチ。その対比を、私は奇しくも我が身のこととして感じ考えながら、受け止めることになったのでした。