昨日に引き続き、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を、第3番、第6番と聴き進めます。演奏はMandelring弦楽四重奏団です。

早朝の個室で、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲を聴いています。

 

最初は第3番です。第1楽章は軽やかに始まりますが、その軽やかさの中には、ひとを小馬鹿にしたようなところは少しもありません。弦楽四重奏曲だからでしょうか? まるでそのことの証明であるかのように、第2楽章が神妙な旋律を奏で、続く第3楽章では、楽想はそのまま激烈に燃え上がります。その後、第4楽章でも深刻さが失われることはなく、第5楽章も暗い散策のように刻まれるのです。

 

今、たまたま「暗い散策」という言葉を使いましたが、ショスタコーヴィチにとって、弦楽四重奏曲は、まさに魂の「暗い散策」だったのだと私は思います。自分の心情を公に吐露すれば、たちまち「退廃芸術」とのレッテルを貼られ、粛清されてしまいますから、交響曲や協奏曲等の「表向き」の顔では、偽りとまでは言いませんが、表情を「作る」必要があったのでしょう。そのような屈折した表現を強いられ、疲弊したショスタコーヴィチは、今度は「難解さ」を隠れ蓑にして、自分の正直な心情を弦楽四重奏曲に吐露したのではないでしょうか。それ故に、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲は、必然的に暗さを帯びたのですね。

 

続いて第6番に進みます。印象的な旋律がうねる第1楽章。少々ロシアリアリズム的ですが、やはりふざけたところはありません。第2楽章。ロシアリアリズムは、この曲を通底しているようですね。それでもリリカルなのはショスタコーヴィチが腕を振るったからでしょうか? ヴァイオリンのしっとりとした歌。第3楽章。民謡風の、リアリスティックな旋律と、それに纏い付く周辺的な旋律。曲は途切れること無く第4楽章へ。旋律あり。まあソヴィエトで無調や十二音技法の音楽を書いたら粛清されますから、旋律はあって当然なのですが。それでも曲全体が田舎臭くならないのは、ショスタコーヴィチの才能と言ってもいいのでしょう。

 

第8番は、機会があればどこかで触れたいと思います。残念ながら時間切れです。