ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第10番、第12番、第14番を聴いています。演奏はMandelring弦楽四重奏団。

ショスタコーヴィチの第10、第12、第14弦楽四重奏曲を聴いています。

この辺りまで来ると、もうショスタコーヴィチも「円熟期」と言うことになるのでしょうか。12番などは、懐の深い、ゆったりした音が鳴って、聴く者のこころが吸い込まれるような気がします。

私は時折考えるのですが、人生の終点に近づき、様々な経験を経ることで「技術」をいろいろと体得し、ひとつの経験を多様に表現できるようになるのが良いのか、それとも「芸術」の旅の初期にあって、経験はまだまだだけれども「情熱」の力でひたすら押して行ける、その直情さを尊ぶべきであるのか。

ちょうど今、12番の後半で、弦の音が幾重にも重なり、聴いているとクラクラするような箇所に差し掛かったのですが、このような表現は、ある程度経験を重ねないと出て来ないと思うのです。言ってみれば、弦楽四重奏曲は「晩年の音楽」であるのではないでしょうか。ブラームスは晩年に素晴らしい室内楽を多数ものし、ブリテン弦楽四重奏曲は暗さの極致にいたる訳ですから……。

しかし、「詩は青春の文学である」等という言葉もあり、私はこちらにも肯んじるのです。老境でいくら技法に長けたとしても、肝腎のポエジーが無ければ万事休す、なのではないでしょうか。事実、私が最後に書いたのは11月であり、今は5月になろうとしていますから、半年ほど何も書いていないのです……。

演奏は14番に入りました。これはもう、私のような素人の「解説」など不要なほどの「名曲」ですね。暗いのは仕方がないとして、表現力は圧倒的です。私の中にも、まだこれくらいの力は残っているのでしょうか? そのようなことは自分で解りそうなものですが、面白いことに、ポエジーがあるかないかは、実際に書いてみるまで解らないのです。